犬居城と天野氏 第14話 1563年~1565年 「遠州総劇」

春野人

2010年04月16日 00:20

犬居城と天野氏 第14話 1563年~1565年 「遠州総劇」 後編
1563年の様子 
今川氏真(25)松平元康(22)織田信長(31)武田信虎(70)武田信玄(42)
 景貞(没)- 天野景泰(与四郎・安芸守・犬居城・惣領)(60歳?)-七郎
 景虎(没)- 天野藤秀(小四郎・篠ヶ嶺城・宇奈代官職)(30歳?)-景貫(小四郎)

 1563年、井伊直平が天野氏の犬居城攻めに向かう。途中、引間(曳馬)城に寄る。飯尾家は、今川家の譜代の重臣である。飯尾乗連(いいお のりつら)は、桶狭間で戦死したとも逃げのびたとも言われるが、この時、曳馬城主はその子、飯尾連竜(いいお つらたつ)が継いでいる。井伊直平は、飯尾連竜の妻お田鶴の方(椿姫)に毒茶を呑まされ死亡した。後に飯尾氏は徳川と内通しており、犬居の天野景泰の後の動向から言えば、以下のように考えられる。
 今川氏真は、天野氏が不穏であることから、井伊直平に犬居城を攻めさせようとした。
井伊家は前年、当主の井伊直親を粛清され、汚名返上の機会であるが、戦力的には厳しい。
そこで、今川家の重臣である飯尾家に相談に行く。
ところが飯尾氏は、今川からの独立または徳川への鞍替えを考えていた。
さらに天野景泰にも誘いをかけていた。攻められては困る。
井伊直平を凋落しようとしたが、失敗、毒殺に至ったのではないかと。

 事ここに至って、天野景泰と子の七郎も、今川家に反旗を翻した。ところが犬居3カ村ではこの動きに同調するものがなかった。権威を失った天野景泰・七郎父子は犬居から去る。

 天野氏の惣領となった藤秀は宮内右衛門尉を名乗り、犬居3カ村の支配にあたったが、全てを支配したわけではなかった。例えば尾上氏には、里原新田20貫文の土地が、藤秀納得の上で安堵されている。また、宇奈・横川両郷代官職には、今川氏の忠実な代官である大塚越後守に与えられた。後に訴訟になり、65年11月に改めて安堵されるものの、本年貢は大塚越後守に渡す事となった。(藤秀が祖父やおじの使用した呼び名を名乗ったことと、このあとの文書で所々で景貫の名になっていることから、後の歴史書やネットでの情報でも、藤秀と景貫は混合されて解釈されているようです。私も残念ながらどちらかどうなのか判断がつきませんが、ここでは藤秀であるのが妥当だと思います。)

 1563年と1564年に、飯尾連竜が守る曳馬城を今川氏真が攻撃。今川氏は、重臣三浦正俊らが戦死、井伊氏は今川氏に従い重臣新野左馬助と中野越後守が討死する。それでも曳馬城は容易に落ちなかった。1564年1月には、三河一向一揆はほぼ収束していたが、牛久保城や吉田城はまだ今川勢力下で、松平勢の援軍はない。そこで10月、氏真と講和する。

 1565年3月、小原鎮実の籠もる吉田城(愛知県豊橋市)は松平家康に包囲され落城。三河から今川の拠点が消えていった。

 12月、飯尾連竜が駿府館にある飯尾屋敷に赴いたところを、完全武装の侍百人余りをもって襲撃。このとき、氏真自ら白刃を振るったという。曳馬城は1566年4月に開城する。

 二俣城を守る松井氏は、今川氏の重要な家臣であった。天野氏との田原城攻めや、大給で天野氏撤退を助けるなど、天野氏の戦友でもある。桶狭間の戦いで、松井宗信率いる一党は本陣の前備えに配置されていた。本陣を守るため、宗信は手勢200名を率いて馳せ戻り懸命に奮戦したが、宗信以下ほとんどが討ち取られたと伝えられる。二俣城は、松井信薫(まついのぶしげ)が病死した際、弟の松井宗信(まつい むねのぶ)が継いだが、桶狭間の戦いで宗信討死後は、兄 信薫の子、松井宗親(まつい むねちか)が継いでいた。松井宗親の妻は、飯尾連竜の姉であった。そのために、1565年、松井宗親も殺されてしまう。二俣城は松井宗信の子、松井宗恒(まつい むねつね)が継ぐ。

 遠江では、東は朝比奈氏(掛川)や小笠原氏(高天神城)、天方氏(森町)や浜名氏(浜名湖)のように、今川方にずっとついていた武将もいたが、西に近いほど三河の松平勢からの計略や影響があり、また北からは同盟国であるはずの武田からの働きかけがあった。城主が討たれ、親族誰もが納得する人物の選定に混乱し、あるいは親族同士で、今川氏、武田氏、松平氏いずれか側につくかの争いが起こっている。今川氏真はその決着を試みたものの、武断政治により、結果としては結束を弱めてしまった。

(井伊氏の犬居城攻めの理由、今川氏真にばれたタイミングや内容など、詳細が不明な点があります。遠江国が混乱した原因をみてみると、先代の義元やそれより以前の行為が遠因になって、一気に噴出しているのが分かります。)

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