天野景貫は、1582年武田氏が滅亡すると、北条氏を頼り、北条軍として戦っている。
徳川方と武田方に、兄弟や親類で分かれて戦った例もあるが、結局勝ったほうが負けたほうの釈面ができることもあった。また、惣領としての天野氏は犬居から撤退したものの、庶子系の和田氏などの系譜は残って引き続き暮らしていった。
また以前にも書きましたが、天野景貫には兄がいて、早くから徳川方について活躍していたという話もある。
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景貫の兄に正貫という人がいて、その系統が三河に栄え、その支流は尾張国にも広がっていたようです。さらに正貫や景貫の大叔父に定景というものがあり、その後裔の康景は家康に仕え、駿河興国寺城主として大名となりましたが、部下が盗賊を働いた天領の民を斬ったことから駿河代官井出正次と確執し、ついに部下をかばって城と大名という身分を棄てたそうです。
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天野氏の同心であった田河内の樽山城を守っていた天野助兵衛(花島氏)は、1577年には長蔵寺村に移り、子孫は熊切村の大庄屋になっている。同じく同心であった渡辺三左衛門尉は、1591年、ふるさとの胡桃平で死去している。他に、尾上氏、前島氏、木下氏など、まだまだ調べればいろいろ出てきそうであるが、犬居山中が戦いの場から平和な土地になったことですから、ひとまず筆を置きたいと思います。