犬居城と天野氏 第2話

犬居城と天野氏 第2話 1221年の承久の乱後、天野政景は各地の地頭職を拝領したあと、犬居に本拠を移し、数々の戦いに参加しながら、国人領主として支配を確実にしていきます。本日は、1400年までの約200年です。この間、鎌倉幕府、北条氏の執権政治、建武の新政、南北朝時代、室町幕府と、全くもって権力争いばかりの戦乱の世ですが、大まかに言えば、結果的に勝ち組になった勢力に加勢していたといえます。もちろん負けていればそこで終りなのですから、結果的には当然ではありますね。

 山香庄の犬居郷や熊切郷の地頭職と言っても、本人は御家人として将軍のそばで仕えていたわけで、当初は代官を通じての支配であったと考えられている。それが鎌倉時代の後半になると、荘園領主である領家と、土地の管理に当たる地頭が、次第にお互いの権益を争うようになっていった。そのため幕府に訴えての和解になるが、紛争が繰り返されるため、恒久的な解決方法として、権利が行使される土地を分けることにした(下地中分)。

 現在も地名が残る『領家』や『堀之内』は、この名残と言われる(水窪の領家と地頭方、境を示す北条峠=傍示峠も同様)。つまり、下地中分で、荘園領主方を領家、気田川を堀に見立てて熱田神社のある高台に居を構えた地頭天野氏の居住地を堀之内と呼んだとされる。

 天野氏の犬居に関係する系譜は、天野遠景-天野政景-天野景経-天野遠時-天野経顕(つねあき)-天野経政となるが、遠時あるいは経顕の頃、本拠を犬居に移したと言われる。1333年、新田義貞により150年続いた鎌倉幕府が滅ぶが、この時天野経顕、経政の父子は、新田軍にて鎌倉を攻撃している。最前線で戦い手柄を立てているが、このとき犬居氏や小河氏が討死している。犬居氏は犬居郷の在地の武士、小河氏は小河村の武士で、おそらく天野氏に被官していたであろうと言われる。(小河は気田川を下流に道沿いにいくと小川という地名が残っている)。

 その後後醍醐天皇の建武の新政になり、南北朝の内乱に続いていく。この時、惣領系の犬居に本拠を持つ天野氏は、足利尊氏と行動をともにしている。三河は足利氏の分国であり、足利氏の一門である今川氏は三河の今川の出身で、建武政府から遠江守護を任じられていたのが今川範国であった。今川範国は後に駿河守護にもなっている。

 この南朝方と北朝方の戦いの舞台に、気多城という名が出てくる。1336年のことである。おそらく気多の篠ケ瀬城のことを指していて、気多には庶子系の天野氏がいて南朝方につき、対立関係にあったと考えられる。他にも勢力があって、複雑な関係になっていますが、何分資料が少なくはっきりとは分からない。しかしながら、この時代に戦地になったということが驚きだった。

 また、このころ天野氏が秋葉城を築き戦ったことも記されている。秋葉山の頂上に現在は秋葉神社が鎮座しているが、赤石のすばらしい石垣がある。秋葉城の機能もあったことも関係しているかもしれない。

 南北朝の動乱の中、遠江守護の今川氏に従って戦った天野氏は、国人領主として今川氏と主従関係を結んでいた。天野経政の子の天野景隆が惣領として、支配を確実にしていった。こうして1400年代に入り、荘園の山香庄も名目上でも解体されて、名実ともに天野氏の支配になる。

 なお、この時期の資料は乏しく、実態は不明瞭である。ここでは、今川氏に従うことで支配を確実にしていったことをポイントとしたい。
(次回は守護大名から戦国大名に変わっていく時代、1400年代の100年間です)


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この記事へのコメント
天野氏を語るには 今川氏を外せないのが分かりましたが、最新話では 家康や武田方とも ビミョーな関わりを働きかけてますね。

中学の頃より 歴史観に進歩がないので、「領家」にさえピンとこなくてorz 意外な史実に 春野の奥深さを感じます。
中高生も1・2話見てるでしょうか? これまでの総合学習で調べたこともあるかも。 故郷に興味や愛着がわくといいですね。

住宅から犬居まで、歩いて遊びに行ったはずですが、神社を知りませんでした。 思えば通りを北に入れる奥にあったのかな… 
Y君が堀之内というだけで、子孫の期待を膨らませて(^^ゞ 今は犬居~平尾まで? もっと広範囲ですか。
Posted by ゆやの里人 at 2010年05月09日 16:29
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