犬居城と天野氏 第28話 1576年 「犬居退去」
1576年の様子
徳川家康(35)織田信長(44)武田勝頼(30)
景貞(没)- 天野景泰(与四郎・安芸守)(70歳?)-七郎
虎景(没)- 天野藤秀(小四郎・篠ヶ嶺城・宮内右衛門尉・惣領)(40歳?)-景貫(小四郎)
塩見坂から北に向かった天野氏は勝坂砦に撤退した。勝坂砦はやはり川に囲まれた要害の地である。現在は国道により道が切通しておりぽつんと島みたいになっているが、以前は西側の山と繋がっていたと思われる。この岩山自体は大きくなく、また西側を攻め取られれば逆に孤立してしまう地でもある。天野氏はさらに鹿鼻砦に移った。鹿鼻砦は、勝坂集落の北にそびえる標高870mの山の中腹である。
鹿鼻砦からは、龍頭山への山道があり、信州街道に繋がっている。
初沢から勝坂へは、現在は川沿いの車道があるが、急峻ながけであり、また川原にも大きな岩がある。昔の道は山を越えて歩く道であると、土地の人が教えてくれた。
(伝承の類だが、)家康は、山を越え坂を降りてくると、途中農婦がいたので、道案内をさせた。名を聞くと「お勝」という。それは縁起がいいということで勝坂と名づけたという。また、下ってきたのどが渇いた家康が飲んだといわれる湧き水が、現在の清水神社に伝えられている。
以上のことから家康軍は、現在の勝坂小学校あたりから下流の東側の岸に陣を構え、気田川を挟んで対陣したと思われる。
家康は、もはや自壊するとみて、大久保忠世に任せ、自らは浜松城に帰った。実際、しばらくして天野氏は武田氏を頼って逃れていった。しかし、その後の掃討戦で、数年の月日を大久保忠世は費やしたとされる。