犬居城と天野氏 第27話 1576年 「塩見坂の戦い」

犬居城と天野氏 第27話 1576年 「塩見坂の戦い」
1576年の様子 
徳川家康(35)織田信長(44)武田勝頼(30)
 景貞(没)- 天野景泰(与四郎・安芸守)(70歳?)-七郎
 虎景(没)- 天野藤秀(小四郎・篠ヶ嶺城・宮内右衛門尉・惣領)(40歳?)-景貫(小四郎)

 標高1212mの入手山から南に伸びた尾根上に、入手城の跡が残っている。一昔前は杉の小学生が遠足で登ったとはいえ、さすがにこの高さでは、戦いには意味がないので、監視や狼煙の連絡的な役割を担っていたと思われる。

 家康の先発隊が樽山から川上に侵入したが、道は狭く細い道を進むしかなかった。そこに気多清佐衛門が割って入り先発隊は混乱した。そこに本陣の榊原をはじめとする将が建て直し、多勢の家康軍は盛り返した。ここで、気多清左衛門は徳川方に降った。


 気多清佐衛門は、天野景泰(与四郎)や虎景が活躍していた1545~47年頃に被官として名前が挙がっている。このときは気多太郎兵衛、気多新二郎などの名前も出ていて、気多氏の一族が居たことが分かる。気多清佐衛門が、この頃からの高齢の歴戦の武者であるか、あるいは子息に譲って名を告いでいるかは定かでない。

 遠江国風土記伝の古地図には屋敷の場所が載っているが、現在の春野中学校あたりではないかと思われる。気多清佐衛門は、後に入手氏に改めたという。

 家康の軍は、杉から石切を経て塩見坂に至った。迎え撃つ天野軍と激戦を展開した。地の利を得ている天野軍は、険阻な場所から鉄砲を放ち、これを防いだ。大原氏や大浜氏が討ち死にし、鵜飼善六は敗走した。

 家康は大久保忠世に命じて、石ヶ峰に登らせた。そこからは天野軍が見下ろせた。鉄砲を放つと、天野軍は撤退し、勝坂砦に退いた。

 この塩見坂や石ヶ峰は現在の地名にはない。潮を見る坂という意味で、遠州灘を望んだかもしれないし、山間地の必需品である塩を海から運んできたのかもしれない。塩見坂は豊岡の発電所の近所から初沢(しょざわ)にかけてと言われる。ここは石切川と気田川の合流点であり、比較的なだらかな春野の南と違い、川も岩で切り立った様子である。ここから北に抜けるには、初沢を登って山を越える道をいくことになる。

 石切から豊岡発電所に出るところがやや切り立った崖にようになっており、その道を迎撃する位置に塩見坂があるとすれば、石ヶ峰もそれが見下ろせる岩山のような位置であると思われる。砦などの施設はなく、多数に対する少数のゲリラ戦であるから、奇襲には向いても、長くは持たなかったのだろう。


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