犬居城と天野氏 第4話

犬居城と天野氏 第4話 1517年~26年

 1503年頃、今川氏が遠江の国人たちを滅するか配下にしていったころ、天野氏も帰順した。今川氏親は幼時曹洞宗の寺にて学問を修め、これをもって領国経営を行っていた。殺伐とした乱世であっての精神的拠り所でもあり、民心の安定のためにもあった。

・遠江国は今川家が支配、その影響で曹洞宗が広がる
・武田氏、松平氏の動向
・検地、「今川仮名目録」がもたらした結果。

 既に100年前から現在の森町に崇信寺や大洞院が開創され、東海地方に広まりつつあった。その上で今川氏の影響もあったことであろう、1505年に天野氏の菩提寺である瑞雲寺(現在の瑞雲院)を曹洞宗の寺として再興した。それまでは真言宗のお寺であったといわれる。またこの地域にはそれまで浄土真宗のお寺が多かったが、曹洞宗に改められていった。1512年には意昌庵が創られるなど、寺や庵が各地に開山された。精神的文化的素養を育むと共に、戦いに明け暮れる心を癒したことであろう。

 曹洞宗は禅などが武士の生き方に合っていたのと、民へも穏やかであったことから、武士と親和性が高かった。浄土真宗は、後には一向一揆と発展することもあることから、どちらかといえば戦国武将とは相性が悪い。平安時代の養老年間に行基によって創設されたとされる春野の寺院は、真言宗であり、密教の協議と秋葉修験との相性がよく、秋葉山は真言宗のまま天野氏によって保護されていたと考えられる。

 さて、前回は1517年頃、遠江は今川氏によって統治されることになったところまで書いた。しかし、この頃既に、武田氏に組するように働きかけがあった形跡がある。1516年には溝口兄弟が武田氏に内通したと、犬居の百姓から今川氏に報告の記録が残る。甲斐国へは信濃経由でなくとも、現在の川根から井川を抜けて山越えして直接行く道もある。

 その後しばらく、天野氏の動向は定かでない。今川氏親はその後も近隣へ出兵している。1522年に尾張の那古野城(後に名古屋城の二ノ丸三ノ丸になる場所に位置する)を築城している。このころ松平氏は長忠の時代で、あまりパッとしなかった。1523年長忠を隠居させ、清康が家督を相続すると、この後三河統一に進んでいく。

 今川氏親は内政に力を入れている。1506年に、遠江国で「検地」を行っている。この時は家臣や寺社に調査して報告させる「指出検地」であった。その後1518年や1524年にも検地を実施している。こうした検地は領国内の掌握のためだが、新規開墾地の発見、余剰分の把握などのメリットもあった。

 1524年の検地の際には、宇刈の百姓一色与三郎が訴えたのに対し、熊切の尾上氏が今川氏の命を執行している。尾上氏は天野氏に被官しているものの、今川家の直接の家臣であった。検地によって年貢高や所役、出陣の際の人数などが割り当てられ、不作な時には責任者が責をとらされだろうから、抵抗もあったのだろう。

 また、今川氏親は、印判状をつくり領国の隅々まで命令を下せる連絡体制をつくった。そして1525年の「今川仮名目録」を制定。幕府から自主独立し、分国内に通用する法を持つに至った。はてさて、天野氏も少し窮屈になったのだろうか、この頃から今川氏と天野氏の間に不具合が生じ、敵対関係になっていく。


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この記事へのコメント
お早うございます。
これまで自分が読んできた歴史書の密度では、窺い知ることのできなかった北遠地方の歴史に触れることができ、毎回楽しく読んでいます。
「領家」などという地名も、何か歴史的ないわれがあるのだらうとは思っていましたが、今回初めて勉強しました。
Posted by 尾張仁 at 2010年02月05日 09:31
尾張仁様。

恐縮です。
史料が少ないのと、解釈がいろいろで、
苦労しています。

それでも、近隣諸国の大きな流れをみると、
おそらくこのように行動したのだろうなと
思うところが見えてくるようです。
Posted by 春野人春野人 at 2010年02月06日 21:41
ここに登場する、熊切の尾上氏は母方の直接の祖先です。

母方の祖父は、熊切から大正時代に豊川市へ移住しました。

現在も熊切の屋敷跡に住んでいる方は、大伯父になります。
Posted by screw at 2010年08月05日 21:59
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