17日(今の暦で6月20日)池鯉鮒、先鋒は桶狭間に。18日沓掛着。夜間、松平元康は大高城への兵糧入れ成功、義元は大いに喜んだ。19日朝、400~700人で守っていた丸根砦を2500人で松平元康が攻め、400~600人で守っていた鷲津砦を重臣掛川城主朝比奈備中守泰朝が2000人で攻める。この時、松平元康の手中、天野助兵衛以下数10名が戦うという話もあるが、助兵衛が誰であるか定かではないが、後の資料に天野氏の同心に天野助兵衛の名がみられる。姓はもと花島であり、後に樽山城に居城したとある。
2つの砦から黒煙が上がるのを、織田信長(28)は熱田神宮にて眺めた。「人間50年~」と舞を舞い、出陣。善照寺から中島砦に差し掛かると、斥候から桶狭間にて酒宴という情報が飛び込む。信長はそのまま3000の軍で桶狭間に向かう。
今川本陣では、丸根砦と鷲津砦が難なく落ちた事に喜び、沓掛城で待機していた本隊を大高城に移動させる。この途中、見張りを北西に立て、謡を三番させていたという。時は丑の刻、午前11時~午後1時の間で、お昼の休憩ということか。突如、真っ黒な雲が南西から近づいたかと思うと、雷を伴う大暴風雨。大人が2かかえもする大木が何本も倒れたという。
その混乱の直後、西より織田信長勢が攻め込む。二俣城主、松井宗信らは奮戦するも、義元を守ろうと探すが、混乱の中で近寄ることが出来ない。義元を守ろうと奮戦した本陣の将45騎のうち43人が討ち死にした。義元に信長の家臣・服部春安が真っ先に斬りつけようとする。自ら抜刀して春安の膝を斬りつけて撃退。更に毛利良勝が斬りつけようとした時にも数合ほどやり合った末に、首を掻こうとした毛利の指を食い千切って絶命した。
この時、本陣には、尾上彦太郎の姿があり討ち死にした。先に書いたとおり、尾上氏は天野氏の同心ではあるものの、単独で義元に同行していることから、今川氏の家臣として、かなり独立性が高い勢力であったといえる。
この時、天野安芸守は、後方守備に回っていた。長らく三河陣番として働き、つかの間の休息であった。そこへ義元敗死の報が伝えられる。25日には氏真より城を守っていることを賞され、やがて出馬することを命じられている。
氏真は留守を守り駿河にいたし、主だった家臣で城主クラスがことごとく討ち死にしているため、全軍指揮をとれるものがいなかったのだろう。残った家臣たちも撤退した。氏真も弔い合戦にと出たが、帰ってくる家臣たちと共に戻ったと伝えられる。駿河にいる武田信虎の動きも不穏であったとされる。
そんな中、義元の重臣・岡部元信は、鳴海城に留まり奮戦する。信長との開城交渉になり、織田方に討ち取られた義元の首級は返還された。岡部元信は何の戦果もなく帰るわけにはいかないと、刈谷城を攻め落とし駿河に戻った。信長は義元の首を丁重に扱ったとされる。他の武将の首を足蹴にしたという信長も、義元には一目おいていたようである。
義元が生きていれば、天野氏もそれなりの重役になっていたかもしれない。しかし、ありえない結果により、大きな変動を余儀なくされていった。
参考
「桶狭間の戦い」関連のお城
桶狭間の戦いWIKI
間違いだらけの桶狭間
今川義元戦国史上最強論