犬居城と天野氏 第12話 1560年~1562年 「桶狭間の後」
1560年の様子
今川氏真(22)松平元康(19)織田信長(28)武田信虎(67)武田信玄(39)
景貞(没)- 天野景泰(与四郎・安芸守・犬居城・惣領)(60歳弱?)-七郎
景虎(没)- 天野藤秀(小四郎・篠ヶ嶺城・宇奈代官職)(30歳?) -
今川義元の戦死とともに多くの武将を亡くしたため、駿府に居た今川氏真(うじざね)は各所に書状を送り、人心の掌握につとめる。既に約2年前に駿河と遠江は氏真が継いでいた。氏真は、塚原卜伝に剣術の指南を受け、和歌や蹴鞠などの公家文化にも通じるなど文武両道の才能があった。桶狭間で城主や重臣が討ち取られ、その忠義に対して恩賞を行い、それら家督争いも収めなければならない。
今川氏真は、外交面では北条氏との連携を維持し、1561年3月には長尾景虎(後の上杉謙信)の関東侵攻に対して北条家に援兵を送っている。また、1561年には室町幕府の御相伴衆の格式に列しており、幕府の権威によって領国の混乱に対処しようとした。
一方、桶狭間での敗戦時、大高城にいた松平元康(後の徳川家康)は、今川家が撤退して空になった岡崎城に戻ると、西三河の攻略を始めた。そして今川氏と同族の吉良氏などの三河における親今川勢力をも攻撃しはじめる。1561年には、松平元康にならった今川氏からの離反は東三河でも見られるようになった。今川氏真は、家臣の吉田城代小原鎮実に命じ、松平側に転属した諸氏の人質を城下の龍拈寺口で殺した。小原鎮実はさらに野田城を攻略、さらに大谷城(おおやじょう)を攻撃した。
松平元康は、1561年4月には、牛久保城の有力家臣を調略のうえ奇襲。これは失敗し、このことを知った氏真により、今川軍の猛反撃が始まる。この後、一宮・御油・牛久保などで激しい戦いが繰り広げられる。
今川氏と全面的な戦いになったこともあり、1562年1月15日、松平元康は織田信長と同盟を結んだ。そして2月4日には、義元の妹の子であった上ノ郷城主 鵜殿長照(かみのごうじょう うどの ながてる)を攻める。その際、鵜殿長照は討死、長照の子・鵜殿氏長、鵜殿氏次は捕らえられ、駿河に人質となっていた家康の妻・築山殿、嫡男・松平信康との交換に利用された。3月、築山殿の父、関口 親永(せきぐち ちかなが)は家康が信長側についた咎めを受け今川氏真の怒りを買い、正室と共に自害。
今川義元が家督を継ぐ時の、花倉の乱(犬居城と天野氏 第6話 1536年)では今川家の外戚で戦闘力のあった福島(くしま)氏と戦い滅していて、翌年は、天野虎景をして、遠江今川氏の堀越用山を討っている。こうしたことからか、当主以外の一門に、あまり強い権限を与えてこなかった。つまり国人領主に力をつけさせない傾向があった。
天野氏についても、天野景泰と天野藤秀の2つの系統があり、分割支配の形になっていた。さらに尾上氏や花島氏のように、天野氏の被官ながら、独立的な今川家臣がいた。それでも惣領である天野景泰により犬居3カ村の一円支配が進められていた。氏真は、天野景泰の息子、七郎に宇名代官職を安堵してしまう。当然、藤秀から訴訟のはこびとなった。
訴訟は、藤秀が虎景から職を継いだ頃幼少であり、天野景泰に掠め取られ、以後隷属させられてきたこと、特に宇名代官職は天野虎景に特別に与えられた職であった。1562年2月、改めて藤秀に虎景同様の、犬居山中当知行分と宇奈代官職を安堵され、検地をして増加分が出た場合、新給恩として認めることとしている。惣領である天野景泰の納得の中で認めさせるこの行為は、やがて天野景泰父子の不信と不満を増大させることとなる。
追記 以下の部分を追記しました。
3月、築山殿の父、関口 親永(せきぐち ちかなが)は家康が信長側についた咎めを受け今川氏真の怒りを買い、正室と共に自害。