犬居城と天野氏 第13話 1562年~1563年 「遠州総劇」

犬居城と天野氏 第13話 1562年~1563年 「遠州総劇」 前編
1562年の様子 
今川氏真(24)松平元康(21)織田信長(30)武田信虎(69)武田信玄(41)
 景貞(没)- 天野景泰(与四郎・安芸守・犬居城・惣領)(60歳?)-七郎
 景虎(没)- 天野藤秀(小四郎・篠ヶ嶺城・宇奈代官職)(30歳?)-景貫(やや武田寄り)

 東三河が松平氏に攻略され、今川氏と戦いになっていた頃、遠江でも動きがあった。まず、1562年に、見付城の堀越氏が反乱を起こす。またもや堀越氏が遠江今川氏の独立をめざしたのだが、三河国の警戒に当たっていた小原鎮実(おはら しげざね、又はしずざね)が、吉田城から兵を率いて遠江国へ向かい、一戦のもとに破って滅ぼした。だが、三河国の守りが手薄になったため、菅沼定盈によって夜襲を受けた野田城が陥落、城代・稲垣氏俊は討死した。 

 次に井伊直親である。井伊家は、今川氏親(駿河国守護・義元の父)の時に、当主井伊直平が1511年旧遠江守護の斯波義達・大河内貞綱らに呼応し戦ったものの、敗れてやむなく今川氏に従属した。1542年、井伊直宗が、今川義元の命で三河田原城攻めで討ち死にし、子の直盛(直親の従兄弟)が22代当主となる。1544年、直親の父 直満が当主直盛に嫡男がいなかったため、直親を養子にさせようとした。直満の動きは家臣の反感をかうとともに、今川氏の意向に沿わないことでもあった。そこで家老の小野道高が義元に注進、直満とその弟の直義は共に駿府に呼び出され、自害させられた。幼少の直親は信濃へ落ち延び、小野道高が亡くなって2年後、1555年に井伊谷へ復帰した。この時既に成人していて、既婚であった。

 1560年養父の井伊直盛が桶狭間の戦いで戦死した。井伊直親が家督を継いで23代当主となる。しかし直親も家臣の小野道好により徳川家康との内通ありと今川氏真に報告された。既に家康側についた三河の菅沼氏から、凋落の働きかけがあったといわれる。1562年に駿河に申し開きをしに行く途中、今川家の重臣・朝比奈泰朝に攻められて戦死した。(なお、直親の子は後に徳川四天王となる井伊直政である。家康により、直親は免罪であったとされ、小野道好は処罰される。)井伊家は、井伊直平おじいちゃんと、その孫であり直親の許婚であった二郎三郎が切り盛りすることになる。

 松平元康は、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。1563年9月、三河で一向一揆が起こった。家康は家臣を二分して戦うことになり、苦戦を強いられる。

 宇津山城主、朝比奈泰充は、総領家(掛川朝比奈家)と同様に今川家に従っていた。1562年には、今川氏から徳川氏へ転属・離反した三河国の五本松城を襲うと、城主西郷正勝を討ち取っている。しかし、1563年9月21日、弟の朝比奈真次(あさひなさねつぐ)が今川派の兄を討ち、宇津山城主として徳川家臣となる。

 さて、天野氏である。天野景泰と天野藤秀は、宇奈代官職や土地の支配をめぐり確執があったことは前回のとおり。実は1561年頃、武田氏の家臣秋山氏と内通しており、7月には天野小四郎(藤秀)に、駿河国の武田の領分を与えることを約束している。まだ、「今川領である駿河」である。今川と武田の同盟が、有名無実化していたのも確かであった。一方で1562年に、宇奈代官職を藤秀に安堵されたことが面白くなかったのか、1563年に天野景泰より尾上氏に武田氏内通のことが漏れる。尾上氏は今川氏の家臣でもあるかって、今川氏真に注進された模様。


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この記事へのコメント
 攻防術策が渦巻く、武将たちの生きざまは
蜜約、内通、反逆のはざまでなかなか過酷でったんだろうなあ。
 死にいつも向かい合っていく内心まで
気持ちが走りました。
Posted by ゲキト at 2010年04月09日 09:26
私の母親の実家が井伊谷にあり、その家の裏が城山といい、井伊家のお城があった所だと思います。
春野もそうですが、井伊谷もそんなに大きな部落でないのに、遠くまで兵を出したりしていますが、大変なことだったと思います。
また、井伊家は、彦根に移り、幕末には井伊直弼を輩出するまでになることは、幼少の頃よく行った井伊谷の情景を思い出すと驚くべきことだと思います。
Posted by タイちゃん at 2010年04月10日 06:02
 戦いも次第にエスカレートしていったかに思います。
人数が多くなり、地域が広くなり、武器が強くなると、
収めどころが難しくなりますね。

 天野氏も井伊氏も小さいながらも一国一城の主ですから、
それなりの責任感と経営手腕を発揮せねばならなかったと思います。
同じ規模でも、掛川城主や曳馬城主の配下なら、
現場指揮官として石高に応じた兵と
戦術面のみ考えればよいのですが、
その地域の戦略面も考えねばならず、
仮に弱みをみせれば家臣を城代に送り込まれるわけで、
一応の独立性を保つには強くなければなりません。

もう一点は、人質の影響もあるかと思います。
人質のためにも、強く生きなければならなかったと。
それにしても、当時の規模や石高では大変だったと思います。

一方で、そうした小規模の組織や多様性が、
人を育てて変化に対応できるという面も評価できると思います。
Posted by 春野人春野人 at 2010年04月12日 13:48
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