犬居城と天野氏 第17話 1569年~1570年 「偽装工作」
1570年の様子
今川氏真(32)徳川家康(29)織田信長(38)武田信虎(77)武田信玄(49)
景貞(没)- 天野景泰(与四郎・安芸守)(70歳?)-七郎
景虎(没)- 天野藤秀(小四郎・篠ヶ嶺城・宮内右衛門尉・惣領)(40歳?)-景貫(小四郎)
一方で武田信玄本隊は、輸送部隊が襲われ、大宮城も苦戦したため、1569年4月、穴山信君を残し、一時甲斐に戻った。
この頃か、天野氏は、被官である花嶋氏を呼び寄せる。花嶋氏は馬が大好きで、天野氏が馬を見せたいと誘い出した。不動川の下流まで来たときに、突然襲いかかり、処分した。表向きは「天野家が武田氏に内通の事」を徳川方に密告したとされる。ただし、家康には「花嶋氏今川氏内通」、今川氏真及び武田信玄あてにはそれぞれ三者三様の理由をつけて報告している。
(さて、いつの頃か定かでないが北遠の国人、奥山定之には四人の息子がいて、現在の佐久間から水窪を分割して治めていた。この内三男の奥山美濃守定茂が、信州の遠山土佐守と組み、攻め落とした。この奥山氏は武田氏に従うことになる。)
5月20日、家康から天野宮内右衛門尉の同心に知行安堵の判物がでる。
渡辺三左衛門 気多之内上石切・河内・竹之内、熊切之内伊佐賀
尾上彦十郎 熊切之内牧野・葛沢・田口之内・堀之内・くつす、気田之内里原
鱸源六郎 家山之内 しろ前山
6月、家康は従わない飯田城を攻撃し、城主山内氏は主従もろともほぼ全滅。天方城の天方通興(母方が天野氏)もよく防戦したがついに力尽きて降伏した。これにより、遠江南部は家康により平定された。
7月24日、家康から天野宮内右衛門尉の同心に知行安堵の判物がでる。
天野八郎左衛門 杉村
7月29日、家康より、同心花島氏の掛川への内通による成敗を賞され、その跡職を安堵される。
8月、秋葉寺別当、茂林光幡は、天野氏を徳川氏に帰順させた功により、秋葉寺25世住職になる。ただし、秋葉山は秋葉城もあった戦略拠点であり、光幡は浜松にいたと考えられている。
このように、家康は積極的な働きかけを行う一方、歯向かう敵はねじ伏せて、遠江を手中に収めていった。
9月、信玄は2万の大軍を率いて、北条を叩くべく上野・武蔵・相模に侵攻する。10月には小田原で戦いがあり、北条家は駿河への援軍よりも、本国の防衛に重きを置くこととなった。さらに越相同盟が完全に機能しない上に、武田と佐竹、里見の同盟が成立した。このため北条軍の駿河守備は手薄となった。12月、信玄は駿河に再び侵攻し、北条の守備隊を撃破した。
1570年、3月、織田信長が入洛した。6月には浅井・朝倉軍と姉川の戦いが始まる。こうして家康が出張中に、天野氏がまたもや飯田城と天方城を武田方に属させる。これに怒った家康が、両城を攻略するが、天方は二心なき事を誓い開城する。
武田信玄は、1570年7月には駿河を完全に平定するに至った。京都では信長と将軍義昭が対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄に信長討伐の御内書を発送する。信玄が動く。