犬居城と天野氏 第21話 1574年 「決戦前夜」

犬居城と天野氏 第21話 1574年 「決戦前夜」
1574年の様子 
徳川家康(33)織田信長(42)武田信虎(81)武田信玄(53)武田勝頼(29)
 景貞(没)- 天野景泰(与四郎・安芸守)(70歳?)-七郎
 景虎(没)- 天野藤秀(小四郎・篠ヶ嶺城・宮内右衛門尉・惣領)(40歳?)-景貫(小四郎)

天正2年正月、徳川家康の長子、信康は15歳にして三河北部に出兵した。
2月、甲斐の武田勝頼は、遠州に出兵、二俣・犬居・天方・只来の各城に規則を設け、守備を厳重にした。徳川家康の攻略が近いことを察知した行動であった。それは直に現実のものとなった。


 さて、以前天野氏を徳川方に寝返らせた功績で秋葉寺別当になった光幡は、1570年家康の命により上杉謙信宛の書状と起請文を携えた使いとして、徳川の熊谷小次郎とともに、越後の直江景綱を訪ねている。上杉と同盟を結ぶことで、武田をけん制するためであった。こういうときに僧という立場は、疑われずに移動ができるため、武将から使いとして重宝された。もっとも光幡は、僧というより忍者に近いかもしれない。

 その往復の結果、同盟は成立した。3月7日に上杉よりの使者が、徳川に出むいた。後にこの同盟に怒った武田方が、寺に火をかけたが、一部を焼いただけで全焼を免れたという。その後の寺の再建に光幡は尽力したという。光幡の使者としての働きや功績により、徳川から信頼を得た光幡には、家康より安堵状が下された。そのため、つづく江戸時代にも権威を保ち続け、「秋葉修験」が別格として扱われることとなったという。

 3月、家康は天野氏の拠る犬居城の攻略を計画する。要の城である二俣城は未だ武田方であった。その補給路であり、武田方の遠江への侵入路である天野氏を攻略することにしたのであろう。以前より、下るように働きかけ、一時は降伏し、天地神明に誓う起請文まで書いたにもかかわらず、あっさり武田方につき、さらには留守中、平野部の武将を武田方に引き込もうとするなど、家康をいらだたせていた。なにより家臣が、天野氏を討つ事を強く訴えたとも言われる。

 家康は、駿河田中城を攻め、さらに武田方の久野弾正忠宗が城将として守る天方城を攻めた。久野弾正は城兵を指揮して大手の門を切って出て戦った。寄せ手の大久保忠隣、渡辺半蔵らは烈しく攻め、ついに外堀を攻め破り本丸を攻め囲むこと3日、兵糧を断たれた久野弾正は夜陰に紛れて逃走、城は徳川の手に帰した。飯田・向笠・各輪・一宮の城も、久能城の久能氏や掛川城の石川和正の攻撃で徳川軍に降っており、森より南は徳川の支配下になった。

 4月6日、徳川軍は天方氏の案内で、三倉、大久保、田能を経て、小奈良安に進入。実は天方氏の妹は、宮内右衛門尉の妻であり、心中は穏やかではなかったと思われる。


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