犬居城と天野氏 第15話 1566年~1568年 「百騎の将」

犬居城と天野氏 第15話 1566年~1568年 「百騎の将」
1566年の様子 
今川氏真(28)松平元康(25)織田信長(34)武田信虎(73)武田信玄(45)
 景貞(没)- 天野景泰(与四郎・安芸守)(65歳?)-七郎(この父子はどこかに流浪中)
 景虎(没)- 天野藤秀(小四郎・篠ヶ嶺城・宮内右衛門尉・惣領)(35歳?)-景貫(小四郎)

 今川氏真、楽市、徳政、役の免除など領国整備を行い、内政に励む。個人技能としては申し分のない氏真であった。だが、周りが強力すぎたのも不運であった。北から武田信玄、西から織田・松平連合軍に次第に押されていく。

 1566年10月、天野氏は今川氏真を見限り、武田24将の一人、秋山伯耆守の仲介で武田氏に組むことを決める。惣領である天野藤秀は1554年に遠山氏の件以来、武田氏とはつながりがあった。天野藤秀は、百騎の将として迎えられた。最もこのことは、今川氏にも松平氏にも秘密である。

 家康は徳川姓を名乗ることを許され名乗る。

 同年12月、何食わぬ顔をして、今川方の諏訪原城(この城は後に勝頼が高天神城を攻めるときに築城したとも言われており、この時期では話が合わないが。)にいた天野藤秀。そこへ山中鹿之助が訪問した。尼子家再興のため各地を放浪していた山中鹿之助は、天野氏を頼って秋葉山に祈願参詣することにした。そして野太刀一振を奉納した。3尺9寸の大物であったが、昭和18年3月13日の大火で焼失している。帰路、修験谷(信玄谷)にて、大猪を肩にした若者と出会い、大谷古猪之介と名付け配下にしたとされる。

 1567年、1月22日、奥山親子に対して中生尾城(なかびうじょう、竜山)の普請を、天方三河守(森町天方城)と天野宮内右衛門尉と談合して進めるように、今川氏真から命令されている。奥山氏は天野氏と血縁関係があった。一方、今川家家臣で三河の吉田城を追い出されていた小原鎮実が、徳川方になった朝比奈真次の籠もる宇津山城(湖西市)を攻略して入城した。こうした今川氏真の攻勢もあった。

 武田信玄は、1567年10月、嫡子武田義信が死ぬと(1565年に発覚した信玄暗殺計画に関わったとして幽閉されていた)、11月今川氏真の妹であった義信の妻を駿河に送り返し、同盟が解消された。今川氏真はその報復として甲斐への塩の移入を止める措置をしている。1568年2月、穴山信君を三河吉田城の酒井忠次に遣わし、東西から駿河遠江に侵攻することを約したと言われる。

 しかし、翌1568年2月、徳川家康は遠江侵攻を開始。宇津山城を攻撃。宇津山城の小原鎮実は計略を残して逃亡した。城中に焔硝(火薬)を埋め置き、寄せ手が城内に押し入った際に爆発させたが、大いに驚いたというが死傷するに及ばなかったと伝わる。

 4月には、二股左衛門尉などの将や、久能城(袋井)の久能宗能が徳川方に降る。先に久野元宗は桶狭間で義元とともに戦死し、弟・宗能が継いでいた。宗能は、徳川家臣・高力清長の誘いを受け、徳川家に付いた。しかしこの後一族は今川家へ帰参しようとする派閥とに分裂・抗争する。

 (8月、家康が小笠原貞信に遣わした書には、武田方に降ったとされる天野氏が触れたとされる廻文を手にいれるように厳命している。どうやら天野氏は武田方へ恭順するように遠江の諸氏に工作を行ったことが伺える。)

 12月、今川領分割に際して、大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする盟約がなった。

 井伊家では、井伊直虎(女性)が仮の当主についていたが、この年はじめ小野道好に井伊谷城を追い出されていた。今川氏真の視点から見れば、今川に忠実な家臣による成敗なのだろうが、これにより、小野に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)が徳川家康に加担し、12月に家康が遠江に進出を先導し、井伊氏も実権を回復した。さらに18日、曳馬城も落城した(城主となっていた田鶴の方は徹底抗戦して自害した)。なお、1570年、徳川家康は、小野道好が井伊直親を事実無根の罪で讒訴したことを咎め、処刑している。曳馬城は浜松城と改名された。

 一方、12月6日、3万5千の大軍で武田信玄が駿河を攻める。今川氏真は戦うものの、薩た峠で敗れ、徳山城から山を抜け(樽山城を経由しという説もある)、掛川城に逃げ込む。この後、武田氏が駿河に攻め込むものの、今川氏の援軍できた北条氏が薩た峠を封鎖して、兵站を抑えられたため、駿河で膠着状態に陥る。

 また別働隊の、秋山伯耆守が3000余の軍勢を率いて信濃伊那口より侵入、天野藤秀を先鋒にして遠江二俣・愛宕郷(あたご)に出張した。この時、天野氏は遠江国中の士に参陣を呼びかけたという。しかし、二俣城では既に、松井衆が今川氏一族で氏真の信頼篤い城将鵜殿三郎と共に降参していて、徳川氏に服属していた。城主松井宗恒は、その時には動向がわからず、後には武田方に投じている。

 一方、徳川家康は、27日には今川氏真が逃げ込んだ掛川城を攻め、掛川城の四方に砦を構えた。掛川城からは、29日、今川氏真から天野氏にこの度の錯乱において、忠節を賞され、また朝比奈泰朝から、天野宮内右衛門尉へ、北条から1000人余の援軍が船にてきているので、忠節に励むようにと書を送られた。しかし、天野氏は武田方の秋山氏に同行していたのであった。


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この記事へのコメント
こんにちわ。
権謀術数、食うか食われるか、離合集散、面従腹背、昨日の友は今日の敵・・・何とも凄まじい乱世です。
教科書的な歴史本しか読んだことがないので、本編でご紹介頂いた史実の中でも、信玄、家康、今川氏真、穴山信君くらいの名前しか知りません。

しかし、山中鹿介は思い出しました。
子供の頃見た秋葉神社社宝リストに、ご指摘のように、この人の太刀がありましたが、当時は中国尼子氏家臣の太刀がどうして遠州山奥の神社に?・・・と不審に思いました。

先年 森町の「戦国夢街道」をハイキングした折、彼がここで餅?を食べた・・・というような表記の看板があったように思いますが・・・。

戦争中の小学校国語教科書では、忠臣、名将、偉人なども教材にしていました。今調べて見ると、この時代の人物としては、鳥井強右衛門勝商、木下藤吉郎と鹿介が採り上げられています。

彼は「我に七難八苦を与え給え」と、三日月に祈った刻苦精励の人として、甲部川畔で討たれるまでの一生を、18ページに亘って紹介されています。

最後は「甲部川の水はこのうらみも知らぬ顔に、今もいういうと流れている月毎にあの淡い三日月の影を浮かべながら。」という文章で締めくくっています。小学5年生後期の生徒に、この詩情が理解できたかどうか・・・。

自分勝手な長文の思い出話で申し訳ありません。
Posted by 尾張仁 at 2010年04月23日 16:43
尼子家再興のため全国を行脚した山中鹿之助と天野氏のくだりは、伝承の部類のようですが、
秋葉城があり、天野氏の庇護もありということから、何らかの関わりはあったかと思います。
(鮎~とかいう家臣の話は創作っぽいという意見もあり割愛しました)
秋葉山は当時、勝軍地蔵尊の信仰もあったようで、
武士から多くの太刀が収められたようですね。

ちなみに七難八苦は、私世代ではドラえもんの漫画に出てきて覚えています。
Posted by 春野人春野人 at 2010年04月24日 21:58
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