犬居城と天野氏 第25話 1575年 「長篠の戦」

犬居城と天野氏 第25話 1575年 「長篠の戦」
1575年の様子 
徳川家康(34)織田信長(43)武田勝頼(29)
 景貞(没)- 天野景泰(与四郎・安芸守)(70歳?)-七郎(どうやら奥平氏を頼っていた模様)
 景虎(没)- 天野藤秀(小四郎・篠ヶ嶺城・宮内右衛門尉・惣領)(40歳?)-景貫(小四郎)

 1575年2月、家康は武田軍の攻撃に備え、奥平信昌を長篠城主にすえて城の規模を拡張した。奥平氏は家康側に降ったさいに、人質を武田勝頼に殺されている。これに対し、勝頼は大軍を率いて信濃から三河に侵入して長篠城を囲み、のちに瓢丸、三の丸、弾正曲輪を占領した、家康は単独では戦えぬと判断し、織田信長に援軍を求めた。既に近畿を制していた信長はこれに応じ、援軍を差し向けた。

 長篠城での武田軍には、小四郎(天野景貫)が従っていた。一方立てこもる長篠城の奥平氏の下に、かつての惣領、与四郎の姿があった。


 5月13日、織田信長は岐阜を発して野田城に入り、18日設楽郡の極楽寺山に陣を構えた。そして武田軍に備え、連子川の西方に馬の侵入を防ぐ柵を設け、そのうしろに諸部隊を布陣させた。

 19日から翌日にかけ、長篠城包囲の軍を残し、才ノ神の丘陵に武田軍の本隊も移動し、武田軍15000と、織田・徳川連合軍30000が対峙した。

 20日、家康の家臣、酒井忠次を大将とする2000余りの軍に鉄砲隊500をつけ、鳶ノ巣山の武田軍を攻撃させた。この家康軍には、尾上十郎正長が武田軍攻撃に加わっている。尾上家の中でも、武田方と徳川方に分かれていた。翌日家康軍が勝利を収めた。

 その21日の朝、武田の騎馬隊は織田・徳川連合軍を攻撃した。これに対して柵の後方から3000余りの鉄砲隊が応戦。一部は破られたものの、2時間後には武田軍の山県・内藤・土屋などの名だたる将が討ち死にした。勝頼は決死の攻撃をしようとするも、周囲に止められ、信濃をさして敗走した。これにより、武田は衰退に向かっていく。

 このとき小四郎も攻撃に加わって、長篠の法元(のりもと)辺りで川を渡り、槍を手に奮戦した。全軍撤退の混乱の中、うまく逃げ、その後犬居に戻った。天野宮内右衛門尉は、「谷中堅固之仕置肝要」と犬居城の警護を命じられていた。この敗戦の知らせは、衝撃であったことであろう。

 この後、天野宮内右衛門尉は、駿河の穴山信君と連携することと、光明城の在番を命ぜられた。


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